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日進 (水上機母艦)[にっしん]
日進(にっしん)は、日本海軍の水上機母艦(甲標的母艦)〔#達昭和14年9月pp.19-20『達第百六十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、砲艦一隻、潜水艦三隻及敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年九月三十日 海軍大臣 吉田善吾|呉海軍工廠ニ於テ建造 敷設艦 日進(ニッシン)|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 砲艦 橋立(ハシダテ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第二十一潜水艦|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十三潜水艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十四潜水艦|株式會社石川島造船所ニ於テ建造 敷設艦 浮島(ウキシマ)』〕。 同型艦は無いが、日進型という表現も使われた〔#S1709日進詳報(2)pp.35-36『(ヘ)現今輸送ヲ重視スベキ時代ニ於テ日進型ノ極メテ調法ナルヲ痛感ス大ナル搭載量及クレーン航續力高速等概ネ現時ノ要求ニ適應スル恰好ノ性能ヲ有セシモノト認ム然レドモ之ガ使用ニ當リテハ主トシテ内地前進根據地間ノ往復ニ當テ爾後第一線基地間ノ輸送ニハ小型高速加及的大ナル搭載力防空力ヲ有スル船艇ヲ用スルヲ原則トスルヲ要ス』〕〔#高松宮日記5巻185頁『第八艦隊参謀長(大約)陸軍要望ノガダルカナルニ対スル輸送量ハ十一月下旬迄ニ第三十八師団ノ大部、混成第二十一旅団及第五十一師団ニシテ、総兵力三万、砲三〇〇、軍需品四万屯ニ達シ、輸送船(満腹ノ場合)五〇隻ナリ。右ヲ海軍艦艇ニテ輸送セントセバ、駆逐艦延八百隻及日進級二隻ヲ要ス(以下略)』〕。大戦中は本来の甲標的母艦として活躍する機会はなく、高速輸送艦として多くの輸送任務に従事した〔#回想のネーヴィーライフ399頁〕〔。1943年(昭和18年)7月22日、ニュージョージア島の戦いに伴うブイン輸送作戦従事中にブーゲンビル島ショートランド泊地近海でアメリカ軍機の爆撃を受けて沈没した〔#戦史叢書96ガ島撤収後249頁『経過概要と南東方面部隊等の作戦指導』〕。 艦名は明治初期の「日進」、日露戦争に参加した装甲巡洋艦「日進」に続き3代目〔#聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)pp.204-206〕。 == 計画 ==
第一次世界大戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮会議により列強各国は海軍休日に突入。その抜け道として日本海軍は「条約制限外艦艇(給油艦、水上機母艦、貨客船)等を建造、平時においてはそのまま運用し、有事の際には短時間のうちに航空母艦(空母)へ改造する」という方針をとった〔#日本空母物語372-376頁『水上機母艦・甲標的母艦の計画について』〕。同時期、日本海軍は酸素魚雷と『甲標的(特殊潜航艇)』の開発に成功する。だが航続距離の短い甲標的を艦隊決戦が行われる海域まで輸送する『母艦』が必要となった〔#日本空母物語343-345頁『洋上決戦用の水上機母艦』〕。そこで甲標的の着想と同時に開発・建造されたのが千歳型水上機母艦2隻(千歳、千代田)および瑞穂、本艦(日進)である〔。先行3隻(千歳、千代田、瑞穂)は水上機母艦(基本計画番号はJ9〔#日本航空母艦史p.122〕、J10〔#日本航空母艦史p.126〕)として竣工・運用し、極秘に甲標的母艦へ改造することを前提としていたが、日進は当初敷設艦として計画された〔#日本空母物語366頁『日進』〕。計画番号は敷設艦艇のH9で〔#日本航空母艦史p.130〕〔「計画番号表 (昭和15年10月30日調製、昭和17年6月8日改定)」#日本軍艦建造史pp.361-371〕、敷設艦甲と仮称されていた〔#海軍造船技術概要p.758〕。途中で千歳と同じ水上機母艦の状態に改正され、1937年11月15日の計画が決定した技術会議では既に水上機母艦とすることに決まっていた〔#海軍造船技術概要pp.758-759〕。ただ、制式に類別を水上機母艦としたのは起工後だった〔。最終的に水上機母艦兼『甲標的母艦』として竣工した〔#日本空母物語367頁〕。
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